昆布と京都伏見の歴史

北前船から三十石船へ

 司馬遼太郎の『菜の花の沖』でも語られる江戸時代に開かれた航路、日本海廻りの北前船などが盛んになった事によって関西に昆布が多く流通するようになり、関西独特の庶民の昆布文化と加工技術が発展しました。
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しかし、それまでは貴族、武家社会などの重要交易品、高級品として鎌倉、室町の戦国時代から出陣の為の「勝ち栗」とともに「喜こぶ」などと縁起物として、また保存食としても
使われてきましたが、貴重品であるため庶民にいきわたる事は少なかったと思われます。

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 そうして、江戸時代に開かれた航路によって、遠く蝦夷や松前(今の北海道)から福井の敦賀や瀬戸内海廻りで大阪堺に運ばれた昆布は乾物以外にも運びやすく食べやすくする為に、甘酢に浸した昆布の表面を大阪堺の包丁職人が薄く削り、より利益の大きい加工品「おぼろ昆布」としても都である京都へ売り込まれ、より庶民の味として定着していきました。


  海から遠い盆地の京都では、地理的に魚介類の入手が難しく、不足ぎみのタンパク源を「回り物」といわれた乾物でおぎなってきました。 また、寺社も多いことから、漬物、昆布、鰹などの乾物、京野菜を使った精進料理などが生まれ、 京都独自の料理文化となって発展してきました。

豊太閤の城下町、納屋町にて

jukokufune3 伏見に豊臣秀吉が伏見城を築城し城下町ができた時、 信長から仕え、秀吉の寄騎であった
尾張の堀尾帯刀(たてわき)吉晴の邸宅があった所から帯刀町と名づけられた市場が後の納屋町商店街となります。 大阪と京都を結ぶ三十石船がいきかう水交運の要所だった頃から、 日本初の路面電車の始発駅だった事からも常に大勢の人々がいきかう交通の要所であり、洛南の台所として錦市場と並び称される程、食材店が軒を連ねていました。
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 伏見の鮮魚商、山城屋佐平治の甥の初代北澤太一が、明治45年に伏見両替町十三丁目に弥千代昆布として昆布製品製造卸しを開業。 昭和10年2月北清昆布と改称して納屋町に移り昆布と鰹の小売り販売も始めて現在に至ります。 (製造卸しは中書島繁栄会内へ移転)

昭和34年10月関西水産加工展にて「ささめおぼろ」が京都市長賞受賞するなど高い技術力と一流の品揃えで、永年、伏見のみなさまにご愛顧されてきました。

昆布と鰹 きたせ昆布老舗 
momoyamajoh「おばんざい」をはじめ、日本の味にかかせない
各種昆布、鰹削りやワカメ、しいたけ、鰊、
自慢のとろろ昆布、汐ふき昆布、佃煮昆布等々、
手づくりのうま味をそのままに
「オコブ・ドット・コム 京のくらしとおばんざい」でご紹介していきたいとおもいます。